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人と風土 わが街のルーツ

人と風土
わが街のルーツ

「豊明市」は、愛知県の中央部よりやや西部に位置し、境川を隔てて東に刈谷市、西は名古屋市、 南は大府市、北は東郷町に隣接しています。鉄道や国道、高速道路など交通の便もよく、名古屋市のベッドタウンとして急速に発展してきました。今回は、豊明市の新しい魅力をご紹介します。

織田信長三千の兵が、
今川義元二万五千の大軍を打ち破った

「桶狭間の合戦」

大金星のまち「豊明市」

今川義元は42歳。駿河・遠江・三河を領する「海道一の弓取り」と称されるほどの実力をもち、尾張一国を手中に収めようと目論んでいました。一方、織田信長(27歳)は、尾張国内の統一に力を注いでいたものの、たびたび今川軍の侵略を受け、蟹江城の戦いや品野城の戦いでは手痛い敗戦を喫していました。

こうして、尾張国境付近をめぐる今川・織田両氏の軍事的緊張が最高潮に達した、永禄3年(1560)5月12日、今川義元は駿府を出陣し、兵を増やしながら、2万5千兵といわれる大軍で、5月18日豊明の沓掛城に入り、尾張侵攻の軍議を開きました。その後、鎌倉街道を進んで行った義元は、織田方の佐々政次・千秋季忠隊の殲滅と松平元康(後の家康)隊による丸根・鷲津砦の攻略と相次ぐ勝利に喜び、沓掛城から大高城のほぼ中間にある「おけはざま山」の北(豊明市)に臨時の本陣を置くことにしました。


対する信長は、主従6騎で清州城を出撃し、熱田神宮に立ち寄ったころには、千人ほどの兵に増え、善照寺砦に着くころには3千の兵に膨れ上がり、その後、中島砦へ入り、義元の本陣を急襲することを家臣たちに告げ、中島砦から兵を進め、山中を通って義元本隊に近づいていきました。

5月19日、昼すぎ事件がおきます。信長が軍勢を山際まで進めている時、桶狭間一帯を北西から暗雲が立ち込め、暴風雨になりました。今川軍の守備には隙ができました。やがて、暴風雨がやみ、安堵していた本陣に、信長が一斉攻撃を命じ、織田軍が突如攻め入りました。
この突然の襲来に、陣中は大混乱。そしてついに、服部小平太・毛利新介により、今川義元が討たれました。優勢な戦いを続けてきた今川義元が、沓掛城から大高城へと兵を動かしたわずか2時間ほどの間に起きた大波乱。一説には、佐々・千秋隊はおとりで義元を油断させる信長の作戦だったと言います。今から458年前、少数精鋭で勝ち取った織田信長の大金星の一戦が、ここ「豊明市」を舞台として繰り広げられていたのです。

七石表(一号碑)

七石表(一号碑)

古戦場伝説地の中で一番古い史跡で、明和8年(1771)12月に尾張藩士によって建てられた七基の石碑。一号碑には、「今川上総介義元戦死所」、二号碑は「松井八郎塚云五郎八」と刻まれてあります。三号碑以下は義元の武将5人の戦死の場所です。

今川義元公本陣跡石碑

今川義元公本陣跡石碑

昭和50年頃(1975頃)義元公直系19代芹沢二郎が建立した。古戦場伝説地内に建立を求めたが、国指定史跡のため建立が認められず、高徳院内に建立された。

国指定史跡

桶狭間古戦場

伝説地

とよあけ桶狭間ガイドボランティア
とよあけ桶狭間ガイドボランティア

●太田輝夫さん(左)と会長の堀田忠夫さん(右)

「豊明市の古戦場は昭和12年12月21日、史跡として文部省に指定されました。江戸時代のほとんどの史料には、豊明の桶狭間古戦場の場所が、今川義元本陣であったと記載されています。

また、ここから東へ1.3キロのところに、戦人塚があります。敗れた今川軍2,500人、織田軍830人の戦死者が葬られています。当時のお百姓さんたちが、鎧や兜をはずして兵たちを埋めたのでしょうか。高徳院には当時の武具が保管されています」と、教えてくださるのが、とよあけ桶狭間ガイドボランティアの堀田忠夫さんと太田輝夫さん。年間17,000人以上の観光客が訪れる史跡の案内人を務めているそうです。
ガイドは無料で予約制です。
詳しくは「とよあけ桶狭間ガイドボランティア」のホームページをご覧ください。

ガイドのお問い合せ先

豊明市観光協会(豊明市産業支援課内)
TEL:0562-92-8332
URL:http://www.toyoake-okehazama.com